日々の生活の中で、何気なく目にする「千川」という名前。

千川駅や千川通りなど、今では地域に定着した名前ですが、そのルーツをたどると、江戸時代に開削された一本の水路に行き着きます。

2026年、千川上水は開削から330年という節目を迎えます。

現在、練馬区立石神井公園ふるさと文化館では、特別展「水を守る―千川家と千川上水の330年―」が開催されています。

今回の展示では、千川上水だけでなく、330年にわたって水路と関わってきた「千川家」に残された資料などから、江戸から現代へ続く水と人との歴史を知ることができます。
「水路を造った人」から始まった、千川家の330年

千川上水の歴史を語るうえで欠かせないのが、徳川家との関係です。


徳川家康が江戸の都市整備を進めると、多くの人が集まるようになり、飲料水の確保が大きな課題となりました。
神田上水や玉川上水が整備され、その玉川上水から分水してつくられたのが千川上水です。

千川上水は、徳川綱吉の時代である元禄9年(1696年)に開削されました。本郷・下谷・浅草方面への給水を目的とし、小石川白山御殿など将軍の「御成」に関わる場所にも水を届けました。
つまり、千川上水は農業用水として始まったのではなく、徳川幕府が整備を進めた江戸の都市インフラの一つだったのです。

その大工事を請け負った中心人物が、千川徳兵衛・太兵衛の二人でした。
二人は私費を投じて工事を完成させ、その功績によって「千川」の姓と帯刀を許されたと伝えられています。

これが千川家の歴史の幕開けです。
開削に携わった千川家は、その後も代々、千川上水の管理や水利用に関わり、水路を守る役割を担っていきます。
時代とともに変わる「水」の顔
江戸時代初期――都市を支えた「上水」

元禄9年(1696年)に開削された千川上水は、武家屋敷や寺社などへ水を届ける、江戸の都市インフラとして重要な役割を担いました。
特に、小石川白山御殿、湯島聖堂、上野寛永寺、浅草寺などへの給水に利用され、江戸の暮らしを支えました。
江戸中期以降――農村を支えた「用水」


千川上水の役割は都市への給水だけではありませんでした。
開削から約10年後の宝永4年(1707年)、流域の村々からの願いが認められ、千川上水の水を農業用水として利用することが許されました。


多摩郡6か村、豊島郡14か村の計20か村に水を引くことが認められ、周辺の農村を支える水路としても重要な存在となりました。

その後、江戸への上水としての役割は次第に縮小し、農業用水としての利用が中心となっていきます。



千川家も地域に密着して水路の管理や水利用に関わり、水路を維持する役割を担いました。
幕末から明治――「工業用水」と「水道」へ
工業用水としての利用

幕末になると、千川上水は思いがけない用途にも使われることになります。


黒船来航をきっかけに幕府が軍備の近代化を急ぐなか、元治元年(1864年)、滝野川村に反射炉と大砲製造所を建設する計画が立てられました。大砲の砲身を加工するための水車を動かす水力として目を付けられたのが、千川上水です。

滝野川へ向けて分水路が整備されましたが、ほどなく幕府が崩壊。大砲製造所は本格的に稼働することなく終わりました。しかし、このとき整備された水路は、その後の滝野川・王子の近代工業を支える水利へとつながっていきます。


明治に入ると、その水は軍事目的だけでなく、近代産業を支える工業用水として活用されていきます。1872年(明治5年)には滝野川に鹿島紡績所が設立され、千川上水の水が工場の動力などに利用されました。

さらに王子では製紙産業が発展し、王子製紙でも千川上水が工業用水として利用されます。また、印刷局でも工場用水として使われるなど、千川上水は滝野川・王子地域の近代産業の発展を支える重要な水源となりました。
江戸の人々に水を届けていた千川上水は、幕末から明治にかけて、軍事工場や紡績、製紙、印刷といった新しい産業を支える「産業の水」へと、その役割を広げていったのです。
生活用水としての利用

一方、千川上水は明治以降も東京の市街地へ水を届ける上水として利用されました。本郷・小石川・下谷・浅草などへの飲料水供給を担い、都市の暮らしを支える水源となります。
明治13年(1880年)には、岩崎弥太郎らの発起によって千川水道会社が設立され、千川上水を利用した水道事業が試みられました。こうして千川上水は、工場を動かす水であると同時に、都市で暮らす人々の生活を支える水としても利用されていったのです。

給水は明治40年(1907年)まで続き、翌明治41年(1908年)に会社は解散しました。
江戸時代に始まった千川上水は、都市の上水、農村の用水、そして近代の工業用水・水道へと役割を変えながら、人々の暮らしを支えてきたのです。
暗渠に眠る歴史と、今に生きる「名残」

都市化が進むにつれ、かつて水田や畑だった地域には住宅や工場が増え、農業用水としての役割は次第に小さくなっていきました。
練馬区史によれば、1948年(昭和23年)10月11日、練馬区議会議長の上野徳次郎から東京都知事・安井誠一郎に対して請願書が提出されました。そこでは、千川上水の氾濫や幼児の水死事故、さらに都市計画を進めるうえでの障害などを理由として、暗渠化が求められています。

これを受け、練馬区内では1952年(昭和27年)から暗渠化工事が始まり、昭和40年代前半にはおおむね完了しました。
こうして、かつて人々の暮らしや産業を支えた千川上水は、その多くが地中へ姿を消していくことになります。
それでも、千川という地名や道路、学校などには、その名残が残されています。

その一つが、私立武蔵高等学校中学校に残る「濯川(すすぎがわ)」です。千川上水から分水された中新井分水に由来し、学校の歴史の中にも千川上水の流れが刻まれています。

また、武蔵高等学校の卒業生らが1938年から1941年にかけて千川上水を調査した記録も残されています。200点を超える写真を含む「千川上水調査アルバム」からは、昭和初期の水路の姿を知ることができます。

板橋宿を騒がせた「巨大生物」

千川上水をめぐる歴史には、地域の水環境を感じさせる意外なエピソードもあります。

江戸時代、板橋宿の追分付近で体長1メートルを超えるオオサンショウウオが見つかったとされる記録が残っています。

珍しい生き物として人々の注目を集め、後には大名屋敷を経て江戸城へ運ばれ、将軍に見せられたという話も伝わっています。
水路や川、水田が身近にあった当時の地域の環境を物語る、興味深いエピソードです。
330年の歴史を、足元から

1696年の開削から330年。
千川上水は、都市の上水、農村の用水、工業用水、そして水道へと、時代とともに役割を変えてきました。
その水路を守り、人々の暮らしを支えてきた千川家の歴史もまた、330年という長い時間の中に刻まれています。

今では暗渠となった場所も多い千川上水ですが、「千川」という名前や地域の風景の中には、その歴史が残っています。



今回の特別展をきっかけに、普段何気なく歩いている道の下を流れていた水の歴史に目を向けてみるのも面白いのではないでしょうか。
特別展「水を守る―千川家と千川上水の330年―」
会期: 2026年9月12日(土)~11月3日(火・祝)
会場: 練馬区立石神井公園ふるさと文化館 2階 企画展示室
東京都練馬区石神井町5-12-16
開館時間: 9:00~18:00
休館日: 月曜日
※9月21日、10月12日は開館。9月24日、10月13日は休館。
料金: 一般300円、大学生・高校生200円、中学生以下・75歳以上無料







