【戦後80年】「成増飛行場」と「グラントハイツ」と「光が丘公園」。住宅街に残る戦争の痕跡を辿ってみました。

多くの区民が訪れる「光が丘公園」や、その周辺に広がる閑静な住宅街。かつてこの地には、太平洋戦争下の日本陸軍の重要拠点「成増飛行場」が存在していました。広大な飛行場は、戦後「グラントハイツ」という米軍家族住宅として生まれ変わり、その後、現在の光が丘公園へと姿を変えます。しかし、今もなお、その歴史を物語るように、住宅街の片隅にひっそりと残る戦争の痕跡があったりします。

「成増飛行場」と「グラントハイツ」と「光が丘公園」

上練馬村の大根畑

現在「光が丘公園」がある場所は1940年頃は「上練馬村」と呼ばれ、広大な田畑が広がっていました。武蔵野台地と荒川低地の境にあり豊富な湧水があったため、農業に適した土地でした(今の光が丘公園北口の交番裏あたりに「お玉が池」という池があったそうです)。

今なお旧地名が残る「上練馬公園」

徳川綱吉が脚気の療養でこの地を訪れ大根を栽培させたことに端を発し、江戸時代からこの地域では大根の栽培が盛んにおこなわれていました。そのため、上練馬村では多くの農家が練馬大根を栽培し、秋から冬には民家の軒先に大根がぶら下がっていたそうです。

1940年になると紀元2,600年記念事業として東京府の「大緑地化計画」に上練馬の地域があげられ、公園化が検討されました。しかし、第二次世界大戦の戦局が怪しくなってくると、首都防衛に向けた陸軍の防衛基地の必要性が検討され、上練馬村の広大な敷地に飛行場予定地として白羽の矢が立ちました。

当時は、成増には兎月園という料亭を含む複合娯楽施設(現在の遊園地)があり、時の陸軍大臣東条英機氏も足を運んでいたそうです。もしかしたら、首都防衛に向けた飛行場予定地を探していた東条氏が、土地勘のある成増の地にある広大でかつ平坦な土地の存在を耳にし、飛行場予定になったのかもしれませんね(ちなみに、白子川沿いには「水車」や「百崖壮」といった料亭があり、政治家や軍人が出入りしていたそうです)。

成増飛行場

成増飛行場の立ち退きと突貫工事

成増飛行場の建設の大きなきっかけとなったのは東京への空襲でした。1942年4月18日に東京が初空襲を受け、あまりに首都が空爆に対して無防備であることが露呈しました。そこで、首都防衛力の強化にむけて、軍部は飛行場の建設を模索し、都心部を取り囲む形で、成増・調布・立川・福生・多摩川・代々木・羽田の7つの飛行場を建設し、来襲するB29爆撃機に備える計画を立てました。

そして、1943年6月から「成増飛行場」の建設に向けた用地接収が始まり、80世帯ほどの住民が立ち退きを命じられました。一定の補償はあったものの、陸軍主導で半強制的に区役所(当時は練馬区はなかったので、板橋区役所)に実印を持ってこさせられ、代替地も十分に提供されずに土地を徴収されたそうです。

工事着手は1943年8月で、わずか4か月後の12月には滑走路が完成するという、驚異的な突貫工事でした。陸軍の工兵隊を中心に、近隣の在郷軍人会、朝鮮半島からの出稼ぎ労働者、さらには学生や豊多摩(中野)刑務所の囚人までが動員され、数千人規模の人海戦術で工事が進められました。

当時の重機は限られていたため、田柄川や用水路を暗渠(あんきょ)にして、トロッコで土を運んで田んぼを埋め、広大な土地を平坦にする作業が手作業で行われました。こうした工事の中で、現在の光が丘公園の北口の交番裏辺りにあった「お玉が池」も埋め立てられてしまいました。

田柄の愛宕神社で毎年7月24日に行われる金魚市(例大祭)は明治10年(1877年)頃から始まったとされ、農家が二番作の区切りとして参詣し、自身の厄除けや家屋の火防(ひぶせ)として金魚を持ち帰ったことで賑わったと伝えられています。かつて田柄川が流れていたことから水に因んでいたとされ、家に金魚を持ち帰ることで火事を防ぐ意味があったと言われています。

赤塚や徳丸とB29の爆撃

Wikipediaより引用。
板橋区 平和記念マップより引用。

完成した成増飛行場の広大な敷地には、南北に幅60 m、延長1,200 mの主滑走路と、幅20 m、延長1,300 mの補助滑走路があったそうです。主滑走路は舗装され、道路や家屋模様に迷彩が施されていました。

また、飛行場の周辺である赤塚には「高射砲第一一六聯隊本部(成増1-3)」や「赤塚高射砲陣地(赤塚1-24)」、「赤塚聴音機陣地(四葉2-23)」等の軍の関連施設がありました。こうした軍用施設は米の迎撃機B29の標的となり、幾度となく成増周辺には空襲があったといいます。

米国国立文書館

1944年12月27日の空襲では、「赤塚高射砲陣地(赤塚1-24)」や「赤塚聴音機陣地(四葉2-23)」を狙い、下赤塚町や徳丸町にB29の爆弾投下がありました。当時B29は高高位から爆弾を落としていたため、上空から落ちてくる爆弾が気流の影響などにより目的地からそれ、住宅街に落ちてしまうことがありました。そのため、現在の赤塚健康福祉センターのあたりにあった民家に爆弾が落ち、おじいさんと子供が亡くなられたそうです(爆弾でバラバラになってしまった遺体を土間に並べていら際に、どうしても左手がないというので探してみると、木のてっぺんにぶら下がっていたそうです(「戦後80年区民が活きた戦争の時代」板橋区立郷土資料館)。

また、徳丸にも爆弾が落ちたそうで、イオン板橋近くの崖上や前谷津川付近の田んぼに落ちたこともあったそうです。

成増飛行場と特攻

成増飛行場はB29の攻撃から首都、特に皇居を防衛することが目的で建設されました。しかしながらB29は、ターボチャージャーを搭載した強力なエンジンにより、高度1万メートルでも性能をほとんど落とさずに飛行できました。一方で、当時の日本軍の戦闘機は、そこまでの高高度での飛行は困難であり、B29を通常の方法で撃墜することはできませんでした。そこで、迎撃機がB29に体当たりする特攻戦術がとられることになり、1944年11月に成増飛行場で「震天制空隊(しんてんせいくうたい)」が編成されました。

特攻機の衝突の様子。「成増陸軍飛行場の記憶」引用。

震天制空隊は敵の爆撃機に体当たりすることで首都防衛を担いました。成増周辺の上空でも、終戦間際には、飛来するアメリカの爆撃機B29を増え、6名の方が捨て身の特攻に出撃し、5名の方が亡くなったそうです。

終戦間際においてB29は爆撃精度を高めるために、飛行高度を下げており、日本軍の戦闘機による機銃攻撃でも撃破可能だったそうですが、特攻は継続されたそうです。

当時は、「玉砕」という言葉が美化され、国を守るために命を捧げることが最高の美徳とされていました。しかし、この言葉は同時に、当時の日本の指導者たちが、多くの若者の命を犠牲にする作戦を正当化するために用いた側面も否定できないのかもしれません。

グラントハイツ

国土交通省国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」

1945年9月成増飛行場が連合国軍に接収され、その後、1947年4月から米軍家族宿舎の建設が始まり、翌1948年8月に完成しました。

第18代アメリカ大統領のグラント将軍の名前を冠して「グラントハイツ」と名付けられました。

グラントハイツに移転してきた軍人家族は千二百世帯といわれています。また、生活を支える日本人従業員も最多時で五千人おり、一戸に必ずメイドが一人つき、階級の上位の軍人家族には、ボーイや運転手がいたそうです。グラントハイツにはPXというスーパーマーケットがあり、チョコレートやお菓子が並んでいたそうです。当時の日本人のおやつといえばふかしたサツマイモだったそうなので、日米の生活水準には雲泥の差があったそうです。

敷地内は治外法権であり、アメリカ国内と同様に扱われました。道路標識はマイル表示で、右側通行であり、アメリカさながらの街並みが広がっていました。

国土情報ウェブマッピングシステム

グラントハイツへの資材や人員輸送のために、東武鉄道が「啓志線(けいしせん)」という路線を敷設し、敷地内の現在の光が丘秋の陽小学校の北側あたりに「啓志駅」も存在しました。もともとは、上板橋から練馬北町の陸軍の物資倉庫(現在の陸上自衛隊練馬駐屯地)へ運搬を目的として建設された引き込み線でしたが、1947年にグラントハイツ建設に伴い延伸され「啓志線」が完成しました。グラントハイツから池袋まで米軍家族専用のディーゼルカーが走っていたそうです。

練馬わがまち資料館

グラントハイツはアメリカ国内と同様であったため、日本人はおいそれと入ることはできませんでしたが、定期的に地域住民との交流も行われていたそうです。例えば、年に一度グラントハイツに地域住民が入れる機会があったり、また、田柄地区のお祭りはグラントハイツの空き地を借りて行われていたと聞いたことがあります。

もっとも、地域の子供たちは日米の関係などお構いなしで、フェンスの穴から敷地に入り込んで、広大な空き地でサッカーや野球をしており、たまにMP(ミリタリーポリス)につかまると生きた心地がしなかったそうです。ただ、MPに捕まり事務所に連れて行かれると片言の日本語で「入っちゃだめだぞ〜」と、注意されて何事もなく帰してもらったそうです。

また、子どもたちはXPで販売されているチョコレートなどの舶来のお菓子が欲しく、トカゲなどの珍しい生き物を捕まえては米軍基地の子どもに買い取ってもらい、そうして得られたセントコインをためてXPでお菓子を買っていたとか。お店の方も来るはずのない日本人の子供が、コインをジャラジャラとお買い物に来て、不思議に思ったことでしょうが、お店の方も寛容で子どもたちは無事にお菓子をゲットできたそうです。

田柄出身の芸能人としてケイ・グラントさんがいらっしゃいますが、グラントハイツから名前を取られています。弟さんは先日閉鎖されてしまった田柄スイミングを経営されていました。

光が丘公園

グラントハイツは1973年に全面返還され、都立光が丘公園や大規模な光が丘団地として再開発されています。

光が丘公園内には、この地の歴史を伝える「平和祈念碑」が建立されています。これは、戦争中にこの地から飛び立ち命を落とした特攻隊員や、飛行場建設のために立ち退きを余儀なくされた人々のことを記憶し、平和を願う区民の思いが込められています。

碑の建設に際しては、成増飛行場の戦友会が再三要望を出し、戦後50年を経てやっと建設されたといいます。

グラントハイツや成増飛行場の跡

グラントハイツの入口

赤塚新町の東京アオヤスさんにアイスクリームを食べにいった際に、近くに住んでいるおじいさんが庭掃除をされていたのでグラントハイツについてお話を聞いてみました。こちらの緑地ですが、ここはかつてはグラントハイツの敷地だったそうです。

こちらにグラントハイツへの入り口があったそうで、年に一度グラントハイツが地域住民に開放される機会があり、ここから中に入っていったそうです。

おじさんのお家の裏側を少し見せていただいたのですが、たしかに掩体壕(えんたいごう)と見られる大きな構造物がありました。かつては、近隣に掩体壕が何基かあったそうですが、ほとんどは取り壊されたそうです。こちらの掩体壕は複数の住宅が上に建設されていることから取り壊されずに奇跡的に残っているそうです(行政の許可を得て建設されているそうです)。

おまけ:光が丘公園は練馬区か板橋区か!?

光が丘公園の大部分は、その名称の通り練馬区光が丘にあるのですが、サッカーコートあたりは、板橋区だったりします。

おまけ:屋敷森に残るグラントハイツの名残

光が丘公園の中にある屋敷盛もかつての面影を残す場所です。この地は滑走路から少し距離があったので、埋め立てられずに戦前の姿を残しています。数年前まではグラントハイツの名残である英語表記の標識があったそうですが、今はなくなってしまいました。

戦後80年を迎え、戦争を経験した方々のお話を聞く機会も少なくなり、また、残り僅かな戦争の遺構もなくなりつつあります。戦争というものを実感として感じる機会がなくなった時、その対極にある「平和」というものの大切さをどのように子どもたちに伝えていけばよいのでしょうか。

オンラインの戦争ゲームに興じる子どもたちを見て、私自身も親として、何を子どもに伝えればよいのか、そもそも伝えられるのか、そんなモヤモヤとした思いを抱える今日このごろです。

参考資料

お役立ちリンク

【地域の情報のまとめ】

地域情報を地域ごとにまとめています。気になる地域をクリックしてみてください。また、地域情報は地域のチャットルームが一番早く情報をゲットできたりしますので、よかったら、ご参加ください(無料で、入退室自由です)。

地域情報地域のLineチャットルーム(無料、入退室自由)
三田線沿線情報上板橋ときわ台中板橋大山下板橋高島平西台蓮根志村三丁目志村坂上本蓮沼板橋本町板橋区役所前新板橋いたばしチャット(180名)
中板橋情報なかいたチャット(募集中)
上板橋情報かみいたチャット(30名)
下赤塚情報あかつかチャット(200名)
東武練馬情報とうぶねりまチャット(50名)
光が丘情報光が丘チャット(100名)
和光情報わこうチャット(200名)
成増情報なりますチャット(約1,100名)

※チャットルームを作成して欲しい地域がありましたら、ご連絡頂ければ作成いたします(リソースの関係で皆さんの声を受けて少しずつ増やしております)。

また、みなさまからの地域情報やご意見・ご提案なども、お問合せフォームからお願いいたします。

この記事を書いた人