東洋一のマンモス団地が迎える歴史の転換点——高島第七小学校の解体と、高島平の変容

ショベルカーの重低音が地響きのように重く響き渡り、白い仮囲いがかつての校庭の視界を遮る。

以前は地域に開放され、子どもたちが夢中でキャッチボールを楽しんでいたあの風景は、もうどこにもない。

白いフェンスの向こう側を窺うことはできず、親しまれていた図書館横の木々は無造作に伐採され、コンクリートの校舎が少しずつ、着実に壊されていく。

通りかかる近隣住民も物珍しそうに、そしてどこか切なげにその光景を眺めていた。

閉校から19年。高島第七小学校との別れを惜しむために催された「棟下式(むねおろしき)」では、夜の校舎にプロジェクションマッピングが映し出され、多くの地域住民が思い出を胸に集った。2026年3月のグランドフィナーレには、約1,500人が来場したという。

そして今、皆の記憶と温かな想いが詰まった学校は解体され、その跡地を含む駅前の再整備地区では、新たな街づくりが始まろうとしている。

1972年、一面に広がっていた「赤塚・徳丸たんぼ」と呼ばれる水田地帯に、高島平団地への入居が始まった。約1万世帯が暮らす巨大な団地群は、まさに高度経済成長期を象徴する「東洋一のマンモス団地」として発展していった。

高島第七小学校が開校したのは1979年。急増する子どもたちを受け入れるため、団地の発展とともに新たな学校が次々と設けられた。

それから半世紀余り。

かつて周囲を圧倒するようにそびえ立っていた巨大団地群は、いま大きな転換期を迎えている。老朽化した住宅や公共施設、人口構成の変化を背景に、駅前ではURと板橋区による連鎖的な都市再生が進められ、将来的には約110メートル規模の超高層建物を含む新たな都市機能の導入も計画されている。

街の変容は、子どもたちの環境にも色濃く表れている。

近隣の高島第二小学校では外国籍の児童が増加し、日本語学習支援の必要性が高まるなど、教育現場の多様化が進んでいる。一方、新河岸小学校では2025年度から2年続けて入学者が10人以下となるなど、少子化の波も刻一刻と押し寄せている。

「変わることは必要だ」

街が持続していくために変化を避けられないことは、誰もが頭では分かっている。それでも、慣れ親しんだ記憶や風景が消え去る変化には、どうしても痛みが伴う。行き交う人々の表情からも、過去への哀愁と未来への戸惑いが混ざり合った複雑な想いが滲み出ていた。

高島第七小学校の解体現場から聞こえる重機の音は、高島平という街がひとつの大きな歴史の転換点を迎え、次の時代へと足を踏み出したことを告げる音でもある。

1972年に水田の中から生まれた街は、いま再び、その姿を大きく変えようとしている。

この記事を書いた人

なりチャン

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