白子に拠点を構え、花岡学園(現在の光が丘公園あたりあった私立小学校)で講師を務めながら、「くつが鳴る」や「緑のそよ風」等の童謡歌曲を制作された「清水かつら」さんの足跡をたどりました。白子橋のすぐそばに家があったと聞いたのですが、実際に場所を探し出すのは思ったよりも大変でした。
清水かつらとは

清水かつらさんは明治31年7月1日、深川に生まれました。お母様のご実家が和光市新倉だったこともあり、小さい頃から白子川を含む武蔵野の自然に慣れ親しんでいたそうです。
同様の作詞家として著名であり、日本人なら一度は聞いたことがある曲をいくつも残しています。例えば、「靴が鳴る」は小学校時代に友人と手をつないで歩いていた情景を歌にしたそうです。
みどりのそよ風も清水かつらを代表する作品です。

清水かつらさんは生まれは深川で、育ちは本郷のようですが、1932年の関東大震災で被災したことをきっかけに母の実家を頼りに和光市新倉に移り住んだそうです。

その後、和光市内で引っ越し、池や土橋、築山のある大きな家にひっこしました。線路沿いにある湧水が豊富に出ている地福寺の傍の家だったそうです。
昭和15年頃、家主の都合により家が取り壊されることになったので、かつら一家は和光市白子2丁目に移転しました。成増から白子へ抜ける旧川越街道は新田坂と呼ばれていますが、坂を下った辺りに造り酒屋の秀峰があり、その隣に家があったそうです。その家は丁度、成増(東京都板橋区)と白子(埼玉県和光市)の県境でした。
戦後、生まれた「みどりのそよ風」は白子と成増の間を流れる白子川を主題に作詞され、「夕やけこやけ」や「どこかで春が」の草川信の作曲で明るい希望に満ちた歌として知られています。 「みどりのそよ風」は、白子川に沿った田園風景を思い起こさせます。
花岡学園

清水かつらさんは白子2丁目に居を構えた後も創作活動をされていたそうですが、同時に学校の先生も務めていました。

学校の名前は「花岡学園」といい、当時神田区栄町で医院を開業していた花岡和雄が自身の子息のために開設した私立の小学校になります。

場所としては、現在の光が丘公園の北西部となり、その後は成増飛行場やグランドハイツと時代の荒波に飲まれたその地は、現在その足跡をたどることは難しい状況となっています。


花岡学院の当時の写真が残っていましたので転載いたします。私立の裕福な子女が通う学校で、花岡氏の理念が詰まった学び舎だったそうです。
ちなみに、写真には兎月園の文字もありますね。かつて旭町に存在したアミューズメント施設みたいですね。
清水かつらが暮らした家
清水かつらさんが白子2丁目に住んでいたということですので、かつての住まいを探してみようと思って久しぶりに成増探検隊が出動しました(子供にさんざん文句を言われましたが)。

和光市が作成した「お散歩マップ」が非常に参考にありますので、この地図の「白子橋近くの家」を探してみることにしました。

旧川越街道であった新田坂を下りて進んでいくと、何やら風情のある家が建っております(ここは昔呉服屋さんだったと後で伺いました。)

ここら辺が都県境みたいなので、この家かな。

それとも、その隣の新しいおうちが清水かつらさんの家かな。ちょっと、判断がつかなかったのですが、みなさんはどちらだと思いますか。
ヒント
都県境
清水かつらさんの家は都県境の隣にあったというヒントがあったので、都県境を探してみました。


けどなかなか都県境らしきものは見つかりませんでした。白子一帯の都県境はかつての白子川の流路となっているので川の名残があるはずなのですが、にわかには見つけられませんでした。どこかな。

あった。この小さな小道が都県境みたいです。

民家の庭のように見えるのですが、ちゃんと道が続いています。

裏手に出ると舗装された道になっています。この曲がりくねった不自然な道は白子川のかつての流路っぽいですね。

だとすると、この都県境の白子川に立つ家が清水かつらさんの家かな??
地元の方にきいてみました
なんとなくのめぼしはついたので、近隣の方にお話を聞いてみました(いろいろと教えて頂きましてありがとうございました)。

どうも清水かつらさんの家は、こちらの新しいおうちあたりにあったそうです。かつては木造の平屋(簡易的な2階もついていたとか)がたっておりそちらに清水かつらさんが住まわれたいたそうです。近隣の子供達と清水かつらさんは交流があったそうで、お話頂いた方のお姉さんも幼少期に清水かつらさんに遊んで頂いたそうです。
そうした白子の子供達と共に過ごした日々が清水かつらさんの動揺歌曲の源になっていたのですね。
ちなみに、清水かつらさんの家は秀峰という酒屋さんの隣だったという情報もあり、秀峰酒造はかつて都県境の成増側にあった酒屋さんでした。こうしたことから総合的に判断すると、清水かつらさんの家屋は現在は新しいおうちが建っている場所にあったのではないかと思ったりしております。

その庭の隣に都県境を挟んで秀峰酒造があったのではないかと推察されます。

この古い地図を見ても清水かつらさんの家はかなり大きいですし、この一帯は白子川が流れていたことからも分かるように、かつては湿地帯だったそうです(この周辺のお宅はかつては庭を掘るとまこもなどの湿地帯の植物があったそうです)。


和光市のホームページに昭和50年代の都県境の写真がありました。手前の電信柱に成増2丁目と書いてあるので、ここが都県境だとすると、その向こうの二階建ての家の向こう側にある平屋か中二階的な物がついた建物がかつて清水かつらさんの住まわれていた家かもしれませんね(地元の方に聞いたところ、清水かつらさんのお宅は平屋に中二階がついていたと聞いております)。

ちなみに、清水かつらさんは大のお酒好きでした。家の隣には大好きな日本酒の酒蔵「秀峰酒造」があり、さらに、秀峰酒造の道を挟んで前には「多聞酒造」という酒蔵があったそうです。お酒好きの清水かつらさんにとっては、最高の住環境だったのかもしれません。
清水かつらさんは53歳で若くして亡くなるのですが、今際(いまわ)においてもお酒のエピソードがあり「酒が飲めなくなったら終りだ」とつぶやいて永眠したといいます(清水かつらさんの最後をみとったのは花岡学園の創設者の次男である花岡信男さんとのことです。旭町で花岡医院を営んでおられました)。

清水かつらさんのモニュメント


清水かつらさんの家のだいたいの位置が分かったので、改めて白子橋の欄干を見返してみました。これまではほとんど気に留めることもなかったのですが、かつてはこの橋を清水かつらさんも頻繁に通っていたのだと、少し感慨深い気持ちになりました。歴史って素敵ですね(子供達には早く行こうと、怒られてしまいましたが)。


かつては白子川も武蔵野の風情を残していたのですね。ちなみに、昔の風情がもしかしたらあるとすれば、白子川はところどころから湧水が排水路を通じて流れてくるので、そうしたミネラルが豊富な綺麗な水が出る場所にはクレソンが自生してたりします。クレソンは非常に根が強い植物であるため、ど根性クレソン的な生え方をしてたりしますので、よ~くみると面白いです。写真は排水溝から繁茂するクレソンです。
帰りに白子を満喫
寄り道富士食品へ


成増探検隊は終わったらご褒美を買う約束になっているので、富士食品でチョコパンを購入してみました(これで子供の期限が良くなりました)。
熊野神社

その後、熊野神社に行って銀杏の木の下のベンチでパンを頂きました。熊野神社は氏子さんの想いにあるれた神社で、子供が行くとひなあられをプレゼントしてもらえたりします。

こちらも氏子さんが作成されているのではないかと思うのですが、正月明けくらいから湧水の水流を利用した水車の建設が行われています。
浩乃湯へ


お腹も満ちたところで、子供と一緒に浩乃湯さんにお邪魔いたしました。こちらの銭湯は、地下水をくみ上げて薪で温めているので、何とも言えないマイルドなお湯で心も体も温まります。
最近コーヒー牛乳が入荷できていないそうで、炭酸飲料を風呂上りに頂きました。
お役立ちリンク
和光市の清水かつらさんのページ。マップもあります。
清水かつらさんの生涯が大変分かりやすく簡潔に記載されています。写真なども引用させて頂いております。
かつて成増に存在したアミューズメントパーク。
秀峰酒造のかつての写真。
花岡学園に関する旭町で花岡医院を営む花岡さんへのインタビューになります。記事内でお写真をお借りしております。