幕末の激動を駆け抜け、新選組の局長として歴史に名を刻んだ近藤勇。農民出身でありながら、その剣の腕とカリスマ性で幕臣にまで登り詰めた彼の生き様は、現代でも多くの人を惹きつけてやみません。

今回は、彼が歩んだ道と、最期の地となった「板橋」での出来事、そして彼が遺した歴史的な重みについて紐解いていきます。
農民から武士へ:近藤勇という男の軌跡

近藤勇(1834-1868)は、武蔵国多摩郡(現:調布市)の農家に生まれました。幼少期より剣術を志し、天然理心流の道場「試衛館」を継承。身分制度が厳格な江戸時代において、農民という出自を乗り越え、実力のみで幕臣(旗本)にまで登り詰めたその姿勢は、まさに立身出世の象徴でした。

- 新選組の誕生: 浪士組への参加を経て京都へ上り、会津藩預かりとして「新選組」を率いた彼は、常に幕府への絶対的な忠誠を貫きました。
- 土方歳三との絆: 天然理心流の仲間であり、副長として彼を支えた土方歳三との固い絆は、新選組という組織を存続させるための最大の支柱でした。
流山での捕縛と板橋への連行

1868年(慶応4年)、鳥羽・伏見の戦い以降、新政府軍に追われる身となった近藤は、千葉県流山市に潜伏します。


- 偽名の露呈: 近藤は「大久保大和(おおくぼやまと)」という偽名を名乗っていましたが、新政府軍の中にいた元新選組隊士の加納鷲雄らに正体を見破られ、捕縛されました。
- 板橋へ: 捕らえられた近藤は、新政府軍の総督府があった板橋宿へ連行されます。ここで連日取り調べを受けました。


板橋刑場での最期:武士として、罪人として


慶応4年4月25日、近藤勇は板橋刑場で斬首刑に処されました。享年35(満34歳)。
- なぜ切腹ではなかったのか: 近藤の処遇をめぐり新政府軍内で対立がありましたが、新選組に恨みを持つ土佐藩(谷干城ら)が、坂本龍馬暗殺の犯人と見なして強く主張したことで、武士としての切腹も許されず、罪人としての「斬首」が決定しました。
- 最期の態度: 処刑に際して、彼は取り乱すことなく、周囲の人々に「長い間、お世話になった」と礼を述べたといわれています。最後まで武士の矜持を失わない、毅然とした態度でした。
謎に包まれた「埋葬地」と各地の墓所



処刑後、彼の首は京都の三条河原で晒されましたが、胴体や首のその後の行方は諸説あり、今も確かなことはわかっていません。そのため、日本各地に彼を偲ぶ供養塔や墓所が存在します。
| 墓所・史跡名 | 特徴・解説 |
| 近藤勇と新選組隊士供養塔(北区滝野川) | 処刑場の近隣にあり、永倉新八が建立。ファンの聖地。 |
| 龍源寺(三鷹市) | 生誕地(調布市)に近い菩提寺。辞世の句碑がある。 |
| 天寧寺(福島県会津若松市) | 土方歳三が遺体の一部を葬ったとされる、ゆかりの深い地。 |
| 法蔵寺(愛知県岡崎市) | 近藤勇の首塚があるとされる。 |
歴史の証言者:永倉新八の功績

近藤勇の死後、彼らの生き様を後世に伝えた人物が、新選組二番隊組長・永倉新八です。
- 『新撰組顛末記』: 生き残った永倉が、晩年に自身の記憶を元に語った回想録です。これがあるおかげで、私たちは池田屋事件や隊の内部事情など、新選組の真実を詳細に知ることができます。
- 剣と記憶: 多くの隊士が戦乱で命を落とす中、明治以降も生き抜いた彼は、まさに新選組という物語の「生き証人」でした。
まとめ
板橋駅周辺を訪れると、かつてこの地で幕府への忠義を貫き、潔く散っていった一人の武士の気配を感じることができます。彼を「敗者」と見るか、それとも「時代に抗った英雄」と見るか――。
板橋の史跡を巡ることは、単なる観光ではなく、激動の時代を生きた人々の「美学」に触れる旅になるはずです。

