2025年6月前谷津川緑道を散歩した際に、少し寄り道して松月院大堂と八幡神社に行ってきました。寺社と神社が隣り合わせにあり、左手の階段が松月院大堂、右手の階段が八幡神社につながっている、変わった入り口の構造をしていました。その歴史的は背景も踏まえて記事にしてみました。

八幡神社



赤塚八幡神社は、東京都板橋区赤塚に鎮座する神社で、下赤塚村の鎮守の一つとされていました。この神社は、古墳の上に建てられており、その歴史は古く、南北朝時代の建武・延元の頃(1334~1340年頃)には既に創建されていたと考えられています。




戦国時代の永禄4年(1561年)には、長尾景虎(後の上杉謙信)による小田原攻めの際に兵火に遭い、松月院大堂と共に焼失したと伝えられています。しかし、この際に大堂の本尊である阿弥陀如来が火中から出現したという伝承も残されています。

本堂の中には小さな屋根が見えております。こちらが本堂でご本尊様が祭られているのでしょうか。

毎年3月には、板橋区指定無形民俗文化財である「赤塚諏訪神社獅子舞」が奉納されます。この獅子舞は、まず赤塚諏訪神社で舞が奉納された後、赤塚八幡神社に場所を移して納めの舞が奉納されるという、地域に根差した伝統的な行事です。五穀豊穣、悪疫退散、害虫除けを祈願して行われます。
松月院大堂


松月院大堂(しょうげついんだいどう)は、東京都板橋区赤塚に位置する歴史ある仏堂です。かつては広大な境内を持ち、板橋区内最古の寺院であったと伝えられています。


大同年間(806~810年)の創建と伝えられるほど古く、区内最古の寺とも言われています。南北朝時代の建武・延元の頃(1334~1340年頃)には七堂伽藍と十二の脇坊を備えた大寺院であったとされています。そのため、村人からは「大堂」と呼ばれていました。

戦国時代の永禄4年(1561年)、上杉謙信(長尾景虎)の小田原攻めの際に兵火に遭い、多くは焼失したと伝えられています。現在の建物はその後、延宝年間(1673~1681年)頃に再建されたと考えられています。

江戸時代には、隣接する松月院(曹洞宗の寺院)の境外仏堂となりました。明治初期の神仏分離令によって、八幡神社と境が分けられました。

国の重要美術品に認定されている「暦応の古鐘(大堂の銅鐘)」が有名です。これは暦応3年(1340年)鋳造の銘を持つ、板橋区最古の梵鐘で、現在は板橋区立郷土資料館に保管されています。また、本尊の阿弥陀如来坐像も鎌倉時代末期の制作とされ、松月院の宝物館「松宝閣」に展示されています。
ちなみに、大堂がある地域にある町会は「番匠免町会」といいます。番匠とは寺社の建築や修繕を行う大工さんを指し、免とは租税免除のことになります。つまり、松月院や大堂などの建築や修繕を行う大工さんが多く住んでいた地域ということですね。
さいごに

今回は、前谷津川緑道の散策から少し道を外れ、かつては一体の境内にあった赤塚八幡神社と松月院大堂に入ってきました。明治時代の神仏分離により、今は入り口から神社と寺社で分けられてしまっていますが、神仏が共存していた時代の名残を感じることができます。
みなさんもよかったら足を運んでみてはいかがでしょうか。